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理不尽・不条理9割は組織の問題 まっとうなチームの作り方

  • MDN
    早稲田大学大学院(MBA)客員准教授
    西條 剛央
    profile

    2004年、早稲田大学大学院人間科学研究科で博士号取得(人間科学)。日本学術振興会特別研究員(DC/PD)を経て、2009年より早稲田大学大学院商学研究科MBAコース専任講師。2014年より現職。専門は組織心理学、哲学。「構造構成主義」という独自のメタ理論を創唱。
    東日本大震災後、約3,000人、50のプロジェクトかならる日本最大級の総合支援ボランティアプロジェクトを運営。2014年、コンピューター界の「オスカー」と呼ばれるPrixArsElectronicaの「ゴールデン・ニカ」(最優秀賞)をコミュニティ部門で日本人として初受賞。「ベストチーム・オブ・ザ・イヤー2014」受賞。
    主著に『チームの力』(筑摩書房)、『人を助けるすんごい仕組み』(ダイヤモンド社)、『構造構成主義とは何か』(北大路書房)がある。

「埋没コスト」vs「方法の原理」

日本もいよいよ末期的な症状を示し始めた。国の抱える借金は2014年6月に1,000兆円を越えたかと思った矢先、一年も経たない2015年3月には1,053兆円にも達している。また福島第一原発事故後、47基の原発が一基も動くことなく猛暑も真冬も乗り越えたにもかかわらず、原発事故が収束しないまま、事態は再稼働に向けて動き出している。

私自身、東日本大震災後、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」を立ち上げ、日本最大級の総合支援組織に成長させたが、そうした活動をする中で、行政をはじめとする様々な理不尽を目の当たりにすることになった。そして、それは特定の個人により引き起こされる人災というよりは、〝組織災〟というべき、必然的にもたらされたものであることがわかってきた。

本連載では、組織でみられる理不尽、不条理がなぜ起こるのかを明らかにした上で、それを解決する理路を提示する。たとえば、冒頭で挙げたように、なぜ安全神話が崩壊し、10万年もの未来にわたって禍根を残す問題だと多くの人たちが認識したにもかかわらず、原発再稼働に向けた議論は進むのだろうか。
それは新経済学の「埋没コスト」という概念を置くと、一定の理解が可能になる。

「埋没コスト」とは、これまでに費やした時間や資金といった回収不可能なコストのことであり、基本的に埋没コストは時間の経過に伴い増大していく。
埋没コストの観点からみれば、原発を止められないのは、方針転換することで、それまでに費やした多くのコストが回収不能になるからだとわかる(戦争を止められなかったのも同じ原理が働いていると考えれば、日本は本質的な意味では過去から何も学んでいないと言える)。
100パーセント埋没するぐらいなら、0パーセントでない限り、今後数十年何も起こらないことに賭けたいという心理が働いてしまう。

なぜこれが不合理な結果を招くのだろうか? それは埋没コストとは「過去に費やしたコスト」のことであり、それを基軸とした意思決定とは、過去に依拠した意思決定に他ならないためだ。

では、どうすればよいだろうか? この不合理を解消するためには、埋没コストと真逆の原理が必要となる。それが、構造構成主義における「方法の原理」である。

方法の原理によれば、方法とは「特定の状況において、何らかの目的を達成するための手段」である。
したがって、方法の有効性とは、(1)状況と(2)目的によって変化することになる。
つまり、方法の原理に即した意思決定とは、〝現在の状況〟と〝目指すべき未来〟を基軸とした意思決定である。
このように、埋没コストによる意思決定とは、真逆のベクトルの考え方なのだ。

我々が-そうとは意識することなく-つい過去(埋没コスト)にとらわれた意思決定をしがちであることを考えれば、方法の原理を自覚して使うことの重要性がわかるだろう。まっとうな意思決定をするためには、現在(状況)と未来(目的)を見定め、意思決定するための「方法の原理」を組織で共有し、実装することしか対策はないと思われる。

本連載と、上梓させていただいた拙著『チームの力』(筑摩書房)を併読することにより理解を深め、実際にあなたが関わる組織の理不尽を少しでも低減し、まっとうなことをまっとうにできるチーム作りに役立てていただければと思う。

組織の不条理を減らす出発点

この連載を読んでいる人で、「なぜこんなヘンなことがまかりとおるのだろう?」と組織の不条理に首をひねったことがない人はいないだろう。

東日本大震災において、石巻市の大川小学校では、74人の児童、10人の教職員が死亡、行方不明となった。この大川小学校の悲劇は、東日本大震災における最大の悲劇であると同時に、学校管理下における戦後最大の惨事ともいえる。

それに対して、石巻市教育委員会が直後に行った聞き取り調査では、証言メモの破棄が取り沙汰されるなど、原因究明が不十分であったことが指摘されている。なぜ、このような不条理が起こるのだろうか?

まっとうなチームを作ろうとした際に重要なことは、〝組織がそのようになっているのには、必ずそれなりの理由がある〟と考える癖をつけることだ。それなりの理由には様々な理由があるのだが、「責任の所在のあり方」に起因する場合も少なくない。

先の大川小学校の例では、津波に対する避難訓練は行われず、津波に対するマニュアルは「近所の空き地や公園に避難する」という見本の記載のままであった。

しかし、それでも、教育委員会や文部科学省が主導となった「第三者検証委員会」でも責任の所在は明らかにされず、何一つ本質的な解明はできなかった。なぜそのようなことが起きてしまうのか。

下の責任が上に問われるような連帯責任性の強い組織では、責任の所在を明らかにすることで、関係機関の責任問題へと発展するのを避けたいという心理につながる。
それによって、自ずと事なかれ主義になり、再発防止のための構造の解明は二の次、三の次になってしまう。連帯責任性の強い組織とは、結局のところ誰も責任をとらない組織になってしまう危険性をはらむのだ。

しかし、ここで自分に目を向けてみると、実は組織に連帯責任を求めているのは、我々「世論」でもあることがわかる。一人の高校球児が問題を起こしたといって大騒ぎをし、そのチームの甲子園出場を取りやめさせる。ある大学生が問題を起こしたといって、学長を謝罪させて糾弾する。
一個人の研究活動の不祥事が、研究機関全体の問題に拡張される。それを突き詰めれば、高校や大学、研究機関の取りつぶしということにもなりかねない。このまま連帯責任を取らせようという風潮が拡大すれば、アリバイ作りのためのマニュアル主義や、事なかれ主義は強まる一方だろう。

特に組織のトップは、「自分のどのような振る舞いや考え方がこの組織をそのようにしてしまったのだろうか?」と問うことが、組織の不条理を減らし、まっとうなチームを作っていくための出発点となる。

問題を報告した人を「おまえがついていながらなんてざまだ!」と叱り飛ばしていれば、上司に報告する前に自分でなんとかしようとするのは自然なことだ。

そして問題が大きくなり、手に負えなくなってから報告することになる。こうして外部からみれば「なぜあんなになるまで放っておいたのだろう?」という事態に陥ることになる。まさに身から出た錆である。

あなたは問題を報告した人に「よくぞ言ってくれた!」と心から言っていますか?

なぜ大成功を手中にした途端に失墜するのか?

「イカロスの翼症候群」という現象をご存知だろうか。大成功を収めた人が信じられないような大失態を犯し、急転直下に地に落ちる現象を指すものだ。まっとうなチームを作るためにはこうした事態は避けなければならない。

そこで2003年、ハーバード・ビジネス・レビューにクラマーの『なぜ権力を手にすると堕落し始めるのか』という論文で論じられたこの現象を、「方法の原理」の観点から読み解いていこう。

方法の原理によれば、方法の有効性は(1)状況と(2)目的に応じて決まる。激しい競争にさらされた状況下で、ライバル達を追い落とし、頂点を極めるという目的の下では「きわめて好戦的」で「リスクに物怖じしない」「成功への裏道を見つける」といった性格傾向は、有効な「方法的性格」として機能するため、「中庸を嫌う危険な性格が染みついていく」ことになる。とはいえ、成功する以前は批判してくれる人も少なからずいるため、暴走にも歯止めがかかりやすい。

ところが、いざ頂点を極めると状況は一変する。「給料を払ってくれるボスをほめ称えよう、弁護しようと待ち構えている部下たちに囲まれ」、「職位が高い部下になるほど、リーダーの意向を尊重する傾向も強い」ため、自らの言動を反省する機会自体なくなっていく。

さらに「危ない傾向として、すべてを欲し、平気でルールを破るタイプのリーダーは、ルールを守る人間をあなどるようになる」。

さらにクラマーはこう続ける。「ちょっと考えればわかると思うが、このような態度が極端になると、先走りに過ぎ、やがては破滅にむかっていくような企業文化が形成されていく。そう、エンロンやタイコ、ワールドコムのように」。トップのそうした態度は、部下へのフィードバックを通して、組織内に浸透していくことになるのだ。

多くの場合、成功し続けるために必要なブレーキを、そこに辿り着く過程で不要なものとして取り外してしまう。そんな無謀なことはしないと思われるかもしれないが、10年、20年とライバル達としのぎを削りながら急斜面をのぼり続けていたならば、心理的なブレーキなど不要だと思っても何ら不思議はない。何しろ合理的で無駄を嫌う人たちなのだから。

いつまでも続く上り坂をイメージしていた際に、ある日突然下り坂になる。ついに頂点を極めた最高のテンションで、アクセルを踏み、いつもの通りハンドルを切る。
しかしカーブを曲がりきれずに、崖から真っ逆さまに墜落する。状況が変わったことに気がつかず、成功した方法で失敗する。これが「方法の原理」から読み解く、「イカロスの翼症候群」の正体ということになる。

ではどうすれば避けられるのか? 方法の有効性は状況と目的に応じて変わる。成功する前と成功した後では状況が違い、「成功すること」と「成功を維持すること」は目的も違うのだから、当然やり方も変えなければならない。まずは、それをどれだけ深く自覚できるかにかかってくる。

リーダーの暴走をとめる最良のリスクマネジメントとは何か?

リーダーが暴走してはまっとうなチームを作ることは叶わない。マキャベリは『君主論』で、人間が成功した方法で失敗するのは、リーダーが状況の変化に合わせて自分の性格を変えられないからであり、また成功体験の呪縛により自分の道を離れる気になれないからだと指摘している。

ワンマン社長が「おれはこの方法で成功してきたのだ!」といって諌言に耳を傾けず、致命的な失敗をして倒産する。
そうした失敗をするときに、周囲の人はたいてい「このままでは取り返しのつかないことになる」とわかっているものであり、実際社長以外には、「このままじゃヤバいね」と言っていたりする。最初は苦言を呈した人がいても、社長がそうした人を遠ざけ、不遇な目に遭わせれば、それを見ていた人達は苦言を呈することはなくなる。
まっとうな人ほど沈みゆく船が沈没する前に去り、危機意識を持たない人や、イエスマンのみが残り、氷山に向けて船は突き進むことになる。

こうしたまっとうな人ほど淘汰されていなくなる現象を「逆淘汰(リバースセレクション)」という。その結果、外部からみれば、あのまま氷山に向かっていけば大破するとわかりそうなものなのに、なぜ回避しなかったのだろうか?と首を傾げるようなことが起こる。

では、そうした組織の不合理に陥ることなく、まっとうなチームを作るためにリーダーはどうすればよいのだろうか。

クラマーは「トップに上り詰めてからその地位に長く座っている人たちには、行動基準や価値観に共通点が見られた」として、「性格や経営スタイルは違えども、だれもが優れたバランス感覚と高い自己認識力を備えて」おり、「心理と行動の両面で節度を失わないように、習慣づけてきたこと」が共通していたという。そこに挙げられているあるハリウッドの経営幹部の台詞は印象的だ。

「スターを招いたパーティ、内輪の試写会、仕事相手との朝食会などには、なるべく出席しないで済ますように心がけています。アカデミー賞はもちろん楽しみですが、子どもや友人と一緒に寝ころんでテレビで観るんですよ。みなさんと同じです」。

これを踏まえクラマーは「ありふれた生活はつまらなく聞こえるかもしれない。しかし自分を見失わず、顧客や部下など、普通の人々から浮き上がらずに済む、確実な方法なのである」と述べている。
そして、「まったくのところ、頂上に上り詰め、その地位を長く維持したいと思うなら、謙譲さを忘れないこと」であり、「そして、自分の内に謙譲の心を育む最高の方法は、人生で本当に大切なものは何であるか、時々思い起こすことだ」と指摘している。

家庭は、社会的にどんなに偉い人だったとしても、夫であり妻であり、父であり母であり、一人の人間であることを思い出させてくれる。どんなに忙しいときも家族との時間を必ず確保するというシンプルな方法こそ、謙虚さを取り戻し、暴走に歯止めをかける最良のリスクマネジメントなのかもしれない。

「タテマエ言語ゲーム」が組織を滅ぼす

日本の組織を蝕む根本にあるものは何か?それは「理念の形骸化」と「タテマエ言語ゲーム」である。
このゲームにいそしむ人たちは、タテマエとして言っておけば実質は何でもいいと考えているため、理念もタテマエの一つで、装飾品に過ぎないと思っている。この死に至る病は多くの組織を蝕んでいる。「タテマエ主義」が理念を骨抜きにしているのだ。

そのタテマエ言語ゲームの最たるものが、コンプライアンス至上主義であり、それを遵守するためのマニュアル主義であり、文章主義だ。多くの組織人は、コンプライアンスを遵守するために、アリバイ作りとしてのマニュアルや文章の作成に追われ、多くのリソースを無駄遣いせざるをえなくなっている。
その結果、教育や医療といった現場では、子ども達や患者に使うべきエネルギーが削がれ、本来の教育や医療の目的が果たせなくなっている。

競争にさらされている営利企業であれば、早晩淘汰がかかることになる(そのため理念を徹底しているまっとうな企業もある)。しかし、巨大な組織であればあるほど、淘汰はかかりにくいため、大企業、大学、学会、行政、中でもその典型といえる日本政府や省庁では、タテマエ言語ゲームがはびこり、理念の形骸化が進みがちになる。
それが憲法にまで及んだのが、「安全保障関連法案」に対する3人の憲法学者による違憲判断騒動である。最高規範であるはずの憲法の骨抜き、これはタテマエ言語ゲームによる理念の形骸化のなれの果てなのだ。

スタッフが足並みを揃えて進むためのコンパスである理念が骨抜きになれば、チームの足並みは揃わなくなる。理念に惹かれて入社した優秀な人材も、タテマエとして掲げているだけだとわかれば立ち去っていくことになる。

では、どうすればよいのか? 第一に、理念の持つ本来の機能を再認識する必要がある。本来、組織の理念とは、組織が守るべき最高規範であり、向かうべき方向性を指し示す羅針盤でもある。つまり、〝組織の本質〟に他ならない。

第二に、自らの組織が、タテマエ言語ゲームにどの程度毒されているかを明らかにする必要がある。診断基準は簡単だ。社員が全員組織の理念をそらんじることができるか。人事採用から戦略立案、戦術の実行に至るまで理念を体現しているか。重要な意思決定は理念に照らして判断しているか。それらにYESと言えない組織は、理念の形骸化が発症していると考えてよい。逆にいえば、組織の理念が語られることなく、真逆の意思決定をしている組織は末期症状と言える。

タテマエ言語ゲームを脱するためには、そのことに気づき〝感性で本音を感じるゲーム〟に移行することだ。日本の組織人の多くは、心のどこかではタテマエ言語ゲームを無意味と感じていながらも、それを明確に自覚することなく、そのゲームに乗っかっている。ゆえに、タテマエだけはきちんと整えることに余念がない。

あるいは、そもそもその組織の成員がタテマエでありお飾りに過ぎないと思っているため、理念と真逆のことを何とも思わずに行っているケースが散見される。組織の本質である理念もタテマエに過ぎず、骨抜きにされるため、およそまっとうなチームを作ることはできないことがわかるだろう。

したがって、まずはタテマエ主義を相対化し、それから降りること。その上で、理念を再確認し、意思決定、人事、戦略立案から接客に至るまで、理念に基づく判断を基軸とする「理念主義」を徹底することである。
それが、形式主義に毒された組織をまっとうなチームに再生させるための出発点となる。

「価値の原理」から紐解く企業の不正問題

財務報告の虚偽記載や粉飾決算、リコール隠しなど、上場企業や大手企業における不正・不祥事が後を絶たない。直近の例でも、大手電機メーカーの不適切会計問題が世間を賑わせたが、なぜこのようなことが起きるのか。

上記の電機メーカーのケースでは、「上司の意向に逆らうことができない企業風土」「当期利益至上主義と目標必達のプレッシャー」といったことが指摘されたが、これは同社固有の問題ではなく、どこの企業でも起こりうることだと考えた方がよい。以下、『チームの力』(筑摩書房)で示した「価値の原理」の観点から論じる。

「価値の原理」(関心相関性)によれば、〝すべての価値は身体、欲望、関心、目的といったものに応じて(相関的に)立ち現れる〟。これは、どんな人でも自分の欲望、関心を基点に物事を判断し、行動することを意味する。そのため、トップの行動の基点となっている欲望や関心(本音)は影絵のように浮き彫りになってしまうのだ。

たとえば、口では「しっかりとコンプライアンスに取り組むように」と言いながらも、実際にはコンプライアンスに取り組むよりも業績を上げた(ようにみせた)人が評価され、ことごとく出世していたならば、有能な部下ほど、その意思決定や動き方から「上司が本当に望んでいる関心」を察知する。
トップの「関心」を受け入れられない誠実な部下は煙たがられ去っていく一方、トップのそうした「関心」に照らして〝適切な行動〟をとる者だけが残っていく(粉飾決算は、銀行の「経営状態の良い企業だけに融資したい」という関心を汲んだ行動とも言える)。

第三者委員会調査報告書では、「監査委員会」「取締役会の監督機能」「財務部」「経理部」といった「内部統制が十分に機能していなかった」ことが示されたが、それはこうしたトップの関心を反映した組織ができあがった結果でもある。トップの関心と企業体質は相関するのだ(これは、近年の検察の証拠捏造による冤罪問題にも通底する問題である)。

では、「外部」に監査を依託したならば、この問題は解決するのだろうか。ベイザーマンらは、ハーバード・ビジネス・レビューに掲載された「善意の会計士が不正監査を犯す理由」という論文において、「ベテランの監査人でもバイアスから逃れることは難しく、自分自身の考えに従って数値を出すのではなく、クライアントのバイアスの影響を受けた会計数値を受け入れやすいこと」を実証する実験結果をはじめとした数々の研究を紹介している。

「監査法人とクライアントの関係が親密であるゆえに本当の財務状況を隠し、投資家や規制当局、時には経営者をもあざむく粉飾を無意識のうちにやってしまうことがある」のだ。つまり、自分の雇用の鍵を握っている上司や顧客の要望(関心)を汲み取り、いわば無意識のうちに顧客に有利な評価にしてしまうのである。

それでは、どうすればまっとうな「外部監査機関」や「第三者委員会」を作れるのか。監査機能を健全に働かせたいならば、一定期間(たとえば3年)は必ず契約を更新すること、よほどのことがない限り、途中で報酬など契約内容の変更はしないこと、仕事内容にかかわらず一定期間が過ぎた後の契約更新はないこと等を最初の契約に盛り込むことで、顧客の関心(期待)に応えようというバイアスが働きにくくなり、業務を忠実に行える条件が整いやすくなる。

しかし、それでもトップが誠実でなければ、誠実な組織を作ることはできない。トップの「誠実さ」は組織の持続的発展の条件なのだ。

「嫉妬」の構造と対策

嫉妬により、自分より優秀な人材を採らない、足を引っ張るといったことがまかり通れば、自ずと組織力は低下する。嫉妬によるいじめによって鬱病になる人が出るだろうし、優秀な人材ほど辞めていき、ライバル会社に転職してしまうといったことも起こりうる。

しかし、こうした弊害は散見されるにもかかわらず、「嫉妬」は組織行動や心理学でも正面から扱われることはめったにない。「嫉妬することなかれ」といった聖書の言葉にあるように、世間的には「小人」が抱く感情であり、まともな人は抱くべきではないとみなされているからかもしれない。

そこで今回は、「本質行動学」(構造構成主義)の観点から嫉妬の本質を把握する。その本質的な構造を理解できれば、対策も立てられるようになるためだ。

さて、人はどういうときに嫉妬するのだろうか? まず、嫉妬は必ず他者との関係性において起こる感情だ。どんなに優秀なスーパーコンピューターにも人は嫉妬しない。そして関心がある分野において嫉妬は起こる。
アイドルになりたいと願っている人でなければ、「AKBの上位になぜあの子が選ばれるのか?」と嫉妬することはない。また、会社の同期や専門が近いなど、直接比較しやすい場合のほうが起こりやすい。他者が成功したのを目の当たりにして、自分の価値が低くなったと感じたときに嫉妬という感情は生じるのだ。

嫉妬には、自分がしたいことを実現している相手への憧れも混ざり込んでいることも多い。そのため、近づいてみるものの、その姿を目の当たりにすると負の感情が生じて、つい攻撃してしまうといった、アンビバレントな(背反する気持ちが同時にある)行動として表出される。嫉妬される方としては「嫌いなら放っておいてくれたらいいのに、なぜ自分から近づいてきて攻撃してくるんだ」といった〝厄介な人〟として立ち現れる。

嫉妬しないためには、「自己肯定感を高めること」「比較しない癖をつけること」「結果よりプロセスに目を向けること」「同じだと思わないようにすること」「嫉妬してしまうような人と触れ合わないようにすること」などが対策として考えられる。

一方、嫉妬されないためにはどうすればよいか? 人は自己価値が下がったと感じたときに嫉妬するゆえ、相手の自己価値を下げないことが最大のポイントになる。素朴な自慢や自画自賛は人を傷つけうることを理解して、厳に慎むことだ。そして、嫉妬されない最も重要な行為とは何か? それは「心から感謝すること」である。「感謝」の本質とは「おかげさまで」である。
何か大きな成功をしたときにも、「みなさんのおかげです」と心から思い、口にすることで、周囲の人の自己価値を低くするのではなく、むしろ高めることができる。そうした成功を手にすることができたのは、周囲の人たちの「おかげさま」であり、みんなで得たものに他ならないためだ。実際、欧米には成功した人が自腹で感謝会を開いて周囲の人たちにその成果を還元するという智慧がある。

また、行き過ぎた業績主義、実績主義、成果主義の組織では、常に比べられるため個人の実績と自己価値が直結して不安定になり、自己価値が低下しやすく嫉妬による足の引っ張り合いが起こりやすい。

その人の存在を価値あるものとして扱うことは存在(being)を大事にすること、自己肯定感を高めることにつながる。
まっとうなチーム作りには、適切な行動(doing)を評価することと、誰もが価値ある存在として、その存在(being)を肯定することのバランスが求められるのだ。

本質的な目的を見失わない

第二次世界大戦中にCIAの前身となる米国戦略諜報局(OSS)が作成した「サボタージュ・マニュアル」をご存じだろうか。一般市民向けのレジスタンス活動支援マニュアルで、長い間極秘資料として非公開だったが、近年機密解除され、一般の人でも読めるようになった。2015年7月には、解説つきの翻訳本『サボタージュ・マニュアル・諜報活動が照らす組織経営の本質』(北大路書房)として公刊された。

中でも特に組織人にとって役立つのは(耳が痛いのは)、「組織や生産に対する一般的な妨害」だろう。そこには「どのようにすれば組織が廻らなくなるか」が書かれている。以下、私なりの観点からまとめてみたい。

第一に「形式主義・手続き主義の徹底」がある。そこでは、たとえば「何事をするにも『決められた手順』を踏まなければならないと主張せよ。迅速な決断をするための簡略した手続きを認めるな」「指示、小切手などの発行に必要な手続きと認可を増やせ。一人でも十分なことに、三人が許可をしなければならないように取りはからえ」「すべての規則を隅々まで適用せよ」とある。

第二が「会議主義」である。たとえば「重要な仕事をするときには会議を開け」「通信議事録、決議の細かい言い回しをめぐって議論せよ」「以前の会議で決議されたことを再び持ち出し、その妥当性をめぐる議論を再開せよ」ということである。

第三が「文書主義」である。「文面による指示を要求せよ」「もっともらしい方法で、ペーパーワークを増大させよ」とある。

第四が「本末転倒の徹底」である。たとえば「あまり重要ではない生産品に完璧さを求めよ」「ごく些細な不備についても修正するために送り返せ」「士気を下げるために、非効率な作業員に心地よくし、不相応な昇進をさせよ。効率的な作業員を冷遇し、その仕事に対して不条理な文句をつけろ」といった具合である。

ジャーナリストの津田大介氏は、本書をして「日本の大企業や官僚制度が抱える問題の本質が驚くほどわかる」と評したが、わが国では妨害工作のために作られたサボタージュ・マニュアルを真面目に実践していることがわかるだろう。

「形式主義」「手続き主義」「会議主義」「文書主義」といった問題の本質はどこにあるのか?それは〝本質的な目的を見失い、手段を目的化すること〟である。こうした陥穽に陥らないためには、本連載でも何度か説明してきた「方法の原理」が有効になる。

方法の原理とは「方法の有効性は目的と状況に応じて決まる」というものであった。つまり、あらゆる方法は目的を達成するための手段であり、あらゆる状況で遵守しなければならない、絶対に正しい方法というものはない。
文章化したり、会議を開くといったことは、ある状況で何らかの目的を達成する際に有効たりうるが、それが目的となるような本末転倒に陥ったときに、目的達成を妨げるようになる。
そうならないためには、方法の原理を組織の構成員で共有し、不条理に陥らないよう、そもそも何のために?と本来の目的を問い直し、今この方法は本当に必要なのか?と問い直し続けることが必要である。

『チームの力』(筑摩書房)にも書いたように、原理とは、それに沿えば必ずうまくいくというものではないが、それから外れたら必ず失敗するという類のものである。
まっとうなチームを作るためには、この言われてみれば「当たり前」にも思える原理を当たり前ではないレベルで徹底することが、最初の一歩であり、究極でもある。

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